文化
項目 概要
日本芸術と文化 日本の芸術と文化の特徴としては、日常の生活から取り出して、可能な限り余分な要素を排除した表現(盆栽・庭園・茶道・華道・能・落語など)が多く、 「引き算」的表現は、海外の多くの人々を魅了しています。
法隆寺 第33代推古天皇の時代に創建(607年)された聖徳太子ゆかりの寺院です。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍(せいいんがらん)と、 夢殿を中心とした東院伽藍(とういんがらん)に分けられ、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。670年に焼失しましたが、その後、 藤原氏により再建され現在に至ります。1993 年、法隆寺の建築物群は世界文化遺産に登録されました。
大仏 奈良県東大寺は世界最大の木造建築物で、安置されている大仏は金銅像として世界最大の仏像です。第45代聖武天皇の命により、 高度な技術を駆使して752年に完成しました。現在は補修が繰り返され、当時の部分として腹、指の一部、台座が残っています。
能と狂言 平安時代に滑稽な物真似だった猿楽(さるがく)が室町時代に観阿弥・世阿弥 ( かんあみ・ぜあみ)の親子により喜劇として確立され、その後、 歌と舞を伴う「能」と言葉遊びや語りを主とした「狂言」に分かれました。
狂言(喜劇)は能(悲劇中心)の合間に演じられることが多く、登場人物も親しみやすく明るい召し使いなどのキャラクターで、内容もわかりやすく 「笑いの芸術」といわれています。能は武家社会の権力者から庇護され一般庶民から離れて、後々の明治維新で途絶えかけますが、 岩倉具視などにより日本の代表芸能として継続され、現在に継承されています。
歌舞伎 戦国時代後期から江戸時代初期にかけて京や江戸で派手な衣装を着て、常識外の行動に走る者たちを「かぶき者」と呼び、 出雲大社の巫女がその振舞いを取り入れた踊りを踊ったのが起源と言われています。当時の遊女や若者の間で広く流行りましたが、 売春等を伴ったため幕府から禁止され、やがて男性のみで演じる野郎歌舞伎となり、明治時代になって現代の歌舞伎に定着しました。
華道 奈良時代に仏前に供えていた花を起源とし、室町時代の東山文化において京都の僧(池坊)により、花瓶に花を立てて芸術性をもたせた「立花」が生まれました。 やがて江戸後期になり精神性を含めた「道」として華道と呼ばれますが、一方、庶民に親しまれる「生花」も広まります。明治になり、華道・生花は海外にも知れ渡り、 戦後はさらに海外に普及し「イケバナ」として認知されています。
茶道 茶は中国から伝わり、安土桃山時代に武士階級の嗜みとなり、千利休がその礼法を確立し日本独自の文化となりました。
禅宗と関わり、わび・さびという満たされない茶室の空間で心を落ち着かせて茶をたてることで自身の精神を高めます。茶室や庭園の空間、 茶道具や和菓子の鑑賞と、「一期一会」にて客人をもてなす点前(てまえ)作法が融合した総合的な芸術です。
香道 室町時代の東山文化において華道や茶道と同時期に作法が確立し、朝廷に仕える公家により伝えられました。芸術性の高い道具を使用し、香木を焚き、その薫りを聞くことで精神を高めます。
日本庭園 日本庭園は道教や仏教思想の影響を大きく受け、平安時代の浄土庭園という造形を経て、鎌倉時代には水墨画的な形へ変化し、日本独自の「枯山水」へ発展しました。 また、桃山時代以降の茶の湯の発達が影響を与え、石燈籠や手水鉢などが用いられるようになり、江戸時代になると庭園様式は大名庭園として発展しました。
日本庭園は他国の風景式庭園とは異なり、自然を2次元的に表現するのではなく、其々の要素の主従関係を3次元的に表現する点に特徴があります。
盆栽 平安時代より樹を鉢に植えていましたが、鎌倉初期に植物と石で景色を表す盆景が中国から伝わり公家や武士を中心に親しまれました。
江戸になると植物だけで表現するようになり「盆栽」として広まりました。現在では海外でも注目を集め日本国内でも再認識されています。
陶磁器 縄文時代の土器から続く日本の焼き物は瀬戸などの陶器を経て、17世紀中頃にさらに硬い染付磁器として有田焼きなどの磁器へと発展し、庶民もそれらを日常的に使用しました。 有田の繁栄は江戸時代に膨大な量が輸出され、ドイツのマイセン磁器にも影響を与えました。
浮世絵 江戸時代に浮世を描いた風俗画として登場しました。やがて鮮やかな多色刷り版画となり、絵師、彫師、刷り師の分業による美人画、役者絵、風景画が発達しました。
幕末にパリの版画家が日本から輸入した陶器の包み紙に描かれた葛飾北斎のスケッチ集(北斎漫画)を見て感動し、それをきっかけに浮世絵が海外に広まり、ゴッホやモネ、 ルノワール、セザンヌなどへ大きな影響を与えました。
枕草子 <春はあけぼの・・・>平安時代中期の女流作家、清少納言により執筆されたと伝わる随筆(エッセイ)です。 第66代一条天皇の皇后に仕えていた頃の宮仕えの体験を、随想として記し、 自然・外界での出来事・人生感などを鋭い感覚で描いた約300段から成る日本の三大随筆の1つです。
方丈記 <ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・・>鎌倉初期、鴨長明(かものちょうめい)は賀茂御祖神社(京都)の次男として生まれ、 歌人を経て出家し、方丈記を執筆しました。前半でこの世の無常を表し、後半では草庵の生活の愛着を表し、 末尾では仏徒としての自己を見つめる構成となっています。日本の三大随筆の1つです。
徒然草 <つれづれなるまゝに、日ぐらし・・・・>鎌倉幕府後期に第94代後二条天皇に仕えていた吉田兼好が書いたと伝わる全234段から成る随筆(エッセイ)です。 その時代の風俗や習慣や宗教感、様々な事柄の無常を描いた日本の三大随筆の1つです。
竹取物語 日本最古とされる作者不明の物語です。
光り輝く竹の中から現れたかぐや姫が老夫婦に育てられ、大人になり数人の裕福な若者から求婚されますが、それを断り月へ帰ってしまう物語です。 富と権力を批判する意図が含まれると言われています。
伊勢物語 平安時代初期の作者不明の歌物語です。
歌人の在原業平(ありわらのなりひら)をモデルにした男女の恋愛、親子愛、友情などを和歌を中心に語られ、人間模様を素直に描き出した物語です。
源氏物語 平安時代中期、紫式部によって創作された長編古典小説です。
約70年にわたり、主人公(光源氏)の女性遍歴を中心として、その子孫の人生までを描写し、王朝文化の最盛期の貴族生活を描いています。
世界的にも最高文学としての価値を評価されています。
平家物語 鎌倉時代に完成したと伝えられ、平家の繁栄と滅亡を描いた軍事物語です。 冒頭部分が祇園精舎の鐘の声・・・・・で始まります。
琵琶を演奏しながら各地を巡って物語を語る琵琶法師などによって語り継がれました。
万葉集 7世紀後半~8世紀後半頃の日本最古の和歌集です。
様々な身分の人間(天皇・貴族から下級官人・農民の防人など)が様々な場面や題材で詠んだ歌を4500首以上も集めたものです。
代表歌人に柿本人麻呂・山上憶良などがいます。
古今和歌集 醍醐天皇の命令で編纂された約1100首の和歌集です。 万葉集の素朴な作風に対して、技巧的な優雅さがあります。
代表歌人に在原業平・紀貫之などがいます。
新古今和歌集 後鳥羽天皇の命令で編纂された約2000首の短歌集(1210年頃)です。 万葉集や古今和歌集の古い歌を取り入れて歌う「本歌取り」という高度な技巧がみられるのが特徴です。
代表歌人に藤原定家、西行などがいます。
紫式部日記 紫式部が第66代一条天皇の皇后(藤原道長の長女)に仕えた頃、1008年から約1年半の日記です。
藤原道長邸の生活や皇后の出産などの様子や、「源氏物語」の世間の評判、清少納言の批評なども記されています。
土佐日記 935年頃、土佐の国の行政官だった紀貫之が、任期を終えて京へ帰京する最中に起きた出来事などを記した日記です。
和泉式部日記 1003年頃、和泉式部(既婚)と為尊親王(ためたかしんのう)との許されない恋愛を経て、 弟の敦道親王(あつみちしんのう)との恋愛の約10ヶ月間のやり取りを記した日記です。
和泉式部の恋愛遍歴に関しては、藤原道長や紫式部からの批評が残っていますが、当時の女性の感性をよく描写していると言われています。
幽玄 途中を省略しても余情を大事にする日本人の根底にある独特の心の世界を意味します。
限られた中で全てを伝えなくても相手に奥深さや味わいが伝わる世界であり、文学・絵画・芸能・建築・庭園などの日本の芸術と文化の根底となる理念です。
わび・さび 茶道や俳句が目指す究極の精神境地です。
わびは千利休(茶道)が追求した境地で、心が静かに澄んで落ち着いた状態です。さびは芭蕉(俳句)が追求した境地で、 枯れた渋みを表し、自然と一体化した状態です。
どちらも利害や人間関係から離れて自然の美を追求しています。
無常 仏教の世界観の1つで、全ての生あるものはやがて死に、万物は変化し続けるという悟りです。 この世界観は平家物語・方丈記・奥の細道などの文学作品の根底にあります。
平家物語では「おごれるものも久しからず・・・」と記され、「方丈記」では「行く川の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず・・・」と記されています。他国では「永遠なもの」に美意識を感じますが、日本人は古来より限りのある美しさ、 例えば桜や紅葉などの「移ろいゆくもの」への無常観に奥深い美意識を感じる感性を持っています。
項目 概要
俳句 平安後期に和歌の575、77の前半・後半を其々別の者が作成して詠む遊びがあり、鎌倉時代には参加者が575、77・575、77・・・・と順に足して百首の和歌を詠む遊びが流行りました。
さらに575、77にて生活感の強い俳諧(はいかい)が流行り、江戸になると松尾芭蕉らにより最初の575(発句)だけを読む作品が現れ、与謝蕪村により芸術性を究めた作品が生まれました。
さらに普遍的な小林一茶の作品も生まれます。明治になり正岡子規により発句はようやく俳句として確立し、現在の俳句に至ります。
神道 古来より人々は山や川などの多くの自然の万物は人間を超えた存在として尊び、祖先を敬い、その教えを伝える教典を作らず、 自然に宿る神々や神話に出てくる神々を祀りました。やがて6世紀頃に伝わった仏教と争うことも無く習合し、 さらに歴史上の英雄や歴代の天皇を神として敬う信仰も生まれました。明治維新から第二次世界大戦までは国家が神道を利用したため、 敗戦後に危険な宗教として排除され、人々の神道に対する知識は薄らぎましたが、現在でも仏教と共に日常生活に溶け込み共存しています。
式年遷宮(伊勢神宮) (伊勢神宮)
飛鳥時代に第40代天武天皇が社殿を造り替えて神座を遷すことを定め、第41代持統天皇が690年から行い、 原則として 20 年ごとに繰り返されています。内宮(天照大御神)と外宮(豊受大御神)の正殿と14の別宮の社殿を造り替えて神座を遷(うつ)します。 戦国時代の120年以上の中断や幾度かの延期などはあったものの、約1300年にわたり行われています。
建国記念日 明治6年に紀元節として初代天皇、神武天皇が即位した紀元前660年2月11日を祝日と制定されましたが、敗戦により昭和23年に廃止されました。 その後昭和41年の祝日法改正により再び国民の祝日に加えられ、昭和42年より適用されました。
国旗(日の丸) 日の丸の赤は「日出づる処」=「日の本(もと)」の太陽を表わしています。 古来文武天皇の頃(701年)に原形があり、その後、江戸幕府の御用船印を 経て、明治3年に異国船との区別を目的に正式な日本の船印と制定しました。 近年において平成11年の国旗国歌法で正式に日本の国歌として定められました。
国歌(君が代) 原形は平安初期の歌古今和歌集の長寿祝福の歌に見られます。
国の概念に目覚めた明治政府が明治2年にその歌から引用作詞し、イギリス軍楽隊長が作曲し、その後明治13年に宮内省が現在の曲に作曲し直しました。 他国の国歌と異なり、歌詞には戦いや勇ましさがなく平和的な祝い歌となっています。しかし大日本帝国の過去により、国内外で拒否反応を持つ人々も多く存在します。 平成11年の国旗国歌法にて正式に日本の国歌として定められました。
天皇 日本の皇位継承は世界で最も長い歴史があります。
神話の時代から算出すると約2670年、または第26代継体天皇(507年)以降を実在説としても、約1400年の長い歴史があります。 天皇は権力的な側面よりも神々に祈る司祭的な役割が強く、王室というよりもローマ法王的なイメージに近い存在と言えます。
しかし、明治に入り司法・行政・立法の頂点に立ち、陸海軍の最高指揮官として神聖不可侵の存在となります。 戦後は民主化された日本国の象徴及び日本国民統合の象徴となり、現在に至ります。
南北朝時代 日本の歴史で天皇家が2つに分裂した時代です。
鎌倉幕府に対する楠木正成(くすのき まさしげ)の反乱と後醍醐天皇の挙兵により鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇が権力を握りました。 しかし後醍醐天皇側は功労者の足利尊氏や新田義貞などの武士を軽視し、公家を重宝したため足利尊氏が反乱を起こしますが、戦いに負けて九州に逃れます。
再び再起した尊氏は天皇軍を破り光明天皇を擁立して室町幕府(北朝)を創立しました。負けた後醍醐天皇は尊氏と講和を結びますが、 奈良へ逃げて南朝を創立し60年間の分裂が続きました。やがて足利義満により南北朝が統一され室町時代の最盛期(北山文化:金閣寺)を迎えます。
上記のように皇室が2つに分かれた時代が南北朝時代です。
日本語 世界で日本語を話す人口としては9番目に位置し、ポルトガル語など複数の外来語が定着しています。 かな、カナや漢字の数が多い割に母音としては「アイウエオ」の5つしかなく、同音で異なる意味を持つ単語や言葉同士の組合せが多い事が特徴です。
氏名 日本の苗字の数は漢字圏の中国・韓国を遥かに上回り、世界でアメリカについで2番目に多い国です。
祭りと神輿 祭りの語源は神仏を「まつる」が語源で、昔の政治も「まつりごと」と呼び、天皇が神様の命令を受けて国を治めることを意味していました。
神輿は神様が一時的に乗る乗り物で、神霊を活性化させて目覚めさせるために左右上下に揺さぶりながら街中を練り歩き、地域の繁栄と安泰を祈願します。
七福神 福をもたらす七柱の神として室町時代の狂言が起源とされています。
1.恵比寿(漁業の神・商売繁盛・五穀豊穣)=イザナギとイザナミの最初の子供という説。 2.大黒天(食物・財福の神)=ヒンドゥー教のシヴァ神と日本神の大国主命との習合。 3.毘沙門天(勝負事の神)=仏教の仏神として七 難を避け、七福を与える北方守護の神で四天王の一人(多聞天・たもんてん)。 4.弁才天(財宝の神)=ヒンドゥー教の女神であり、妙音菩薩や神道の宗像三女神と同一視される。 5.福禄寿(子供・財産・長寿の神)=寿老人と同一視される。 6.寿老人(長寿の神)=中国は道教の南極星の化身。 7.布袋(中国の禅僧)=弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と言われた聖人で福徳の神。(7種の野菜から作る福神漬けは七福神からの名称です)
柔道 江戸時代の武士の柔術であり、明治15年に嘉納治五郎(柔道の父)により体系化されました。
「柔」は柔能く剛を制す(じゅうよくごうをせいす」の意味を持ち、自らは大きな力を出さずに相手の力を利用して制する意味を持ちます。 「精力善用(自分を活用して善い事に努める)」と「自他共栄(相手を敬い共に栄える)」を基本とした日本発祥の武術です。
剣道 戦いの武器として平安時代中期に刀が使われ、武士の象徴となりました。 戦国時代から江戸初期にかけて剣術の流派が生まれ、中期には竹刀による剣術の稽古(竹刀打ち込み稽古)が定着し、幕末にかけては道場での剣術試合が広まり、 明治維新を経て大正初期に剣術を「剣道」と改め、これが日本の武士の精神に基づく「武道」であると説きました。
第2次大戦敗戦後、GHQにより剣道は抑圧されましたが、昭和27年全日本剣道連盟が結成されて甦り、庶民の間に拡がりました。
1970年には国際剣道連盟が結成され、第1回世界剣道選手権大会が日本武道館でて開催されました。
空手 琉球王国時代の沖縄で発祥し、大正時代に他県に伝わり、第二次大戦後に世界各地に広まり親しまれています。
「動く禅」と呼ばれ、心技体の一致と人間形成を経て、自己鍛錬と礼儀を窮める武道です。
相模 起源は第11代垂仁天皇の御前にて行った勇者の格闘が起源と言われています。また日本神話のタケミカヅチとタケミナカタの力比べも相撲の原形とされています。
日本古来の神事・祭りとして、神前にて男性が力を尽くすため、礼儀作法が重視されます。
干支 古来、中国の天文学で木星が12年で天を1周することから、毎年の木星の位置を示す位置として子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12支としました。 これがやがて日本へ伝わり江戸時代には時刻として活用され、1日を12支で分けて表しました。深夜23~24時を子(ね)の刻とし、昼11~12時を午(うま)の刻としました。 よって昼の中心とその前後を正の午/午の前/午の後として、現代の正午/午前/午後という表現となっています。
一方、物事を10分類する十干(じっかん)「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」があります。其々は5つの物質(木・火・土・金・水)を兄(え)=陽、弟(と) =陰の2つに分け、木(き)の兄(え)、木(き)の弟(と)という・・・・・10個に区別して十干(じっかん)にあてはめました。よって甲=きのえ、乙=きのと、となります。 12支と十干の組合せが、甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)・・・となり、60種類の組み合わせが一巡する満60歳を還暦(かんれき)としてお祝いします。
昔は赤色の産着が多かったため、一巡して生まれた時に帰る意味で赤色の衣服を贈る習慣があります。干支(えと)の語源は兄(え)弟(と)となります。
お祓い 七五三は元々は子供の厄払いであり、大人の厄年の厄払いや車の交通安全祈願、建築前の地鎮祭などが代表的なお祓いとして継続しています。
それらは罪や穢れを除いて清める日本神話のイザナギの禊(みそぎ)が起源となっています。
温泉 火山の国である日本の温泉数は約2800箇所に及び、世界一です。その歴史は縄文時代と言われ、庶民的なものでした。
江戸時代になると湯治場(とうじば)が発達し賑わいました。
現在の海外の温泉は療養目的が多い中で、日本は温泉地へ行くこと自体を楽しむ娯楽傾向にあることが特徴です。
花火 花火は徳川家康の時代に日本に伝わり、江戸の花火師により改良が加えられました。 色がついてない花火に数種類の火薬玉を重ねて複数色の鮮やかな丸い花形にする独特の技術を生み出しました。
現在でも日本の花火はその技術を受け継ぎ、世界に誇れる技術を有しています。
三味線 蛇の皮を張り、義爪で弾奏する中国の三絃(さんしぇん)という楽器が起源で、沖縄へ伝わり三線(さんしん)として使用されました。
その後、江戸中期に大阪(堺)へ伝わり、猫の皮を張り琵琶の撥(ばち)を利用するように改良され、三味線の原形ができました。
現在では日本の近世音楽を代表する楽器です。
米 日本の稲作は縄文時代に中国から九州南部に伝わりました。 日本は豊富な日光と水、昼夜の温度差があり自然に恵まれたため、粘り気のある米ができました。
五穀豊穣を願う行事も盛んになりましたが、庶民には租税(年貢米)として負担となりました。江戸時代では大名の格付けが米の石高(こくだか)基準となり、 価値観が米中心となりましたが、明治6年に年貢が廃止されます。
現代においても日本人の主食として品種改良されていますが、その消費量は残念ながら年々減少しています。
寿司 紀元前の東南アジアでは塩づけの魚や鶏肉を米に漬けて発酵させる「なれずし」という保存食がありました。現在の琵琶湖の「鮒ずし」が同様のものです。
その後、中国を経て日本へ伝わり、米も一緒に食べる「生成ずし」へ発展し、江戸では飯に酢を混ぜて魚と合わせて食べる「早ずし」へと変わります。
さらに屋台が町に広まり、華屋与兵衛(はなやよへえ)が「にぎり寿司」を考案し、東京湾の魚介を使った「江戸前寿司」と呼ばれて全国へ広まりました。
現在では健康的な食べ物として世界中で食されています。
弁当 弁当の起源は平安時代におにぎりや干し飯としての記述があります。
安土桃山時代には花見や茶会で食べる漆器の弁当となり、江戸時代では歌舞伎などの休憩(幕の内)で食べられていました。
日本に弁当が広まったのは日本が粘り気が強く、冷めてもおいしいという利点があったためと言われています。台湾などでも戦争中の日本の影響で同様の弁当が存在しますが、 日本のような華麗で多種多様な弁当文化は大変珍しい存在です。
味噌・醤油・豆腐・納豆 味噌の原形として、縄文時代に塩と米や豆などを混ぜて作る調味料が存在しますが、記述としては奈良時代に出てきます。
鎌倉時代に大豆を加工した豆腐が作られ、室町時代に味噌汁や納豆、醤油がつくられます。
江戸では各地で自家製の味噌が作られ、豆腐料理も考案されました。また東北では魚で作る魚醤「しょっつる」がありますが、 現在普及している醤油の原形は関西で発達しました。現在は海外で醤油が健康的な調味料として広まり、豆腐も健康食品として認知されています。

日本文化いろは事典

右のサイトにさらに詳しく記載されています。ぜひご覧ください。

日本文化いろは辞典

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